二酸化炭素濃度の上昇は本当に植物にとって「良いこと」だけなのか? その多角的影響を科学的に検証する
導入:検証対象となる主張
「大気中の二酸化炭素(CO2)濃度が上昇することは、植物の光合成を促進し、地球全体の植生を豊かにするため、気候変動はむしろ良いことである」という主張が、一部で聞かれることがあります。この主張は、気候変動に対する懸念を軽視する根拠として用いられることがあり、その科学的な真偽について多くの誤解が生じています。本記事では、この「CO2濃度上昇が植物にとって良いことである」という主張の多角的な側面を科学的根拠に基づいて検証し、その全体像を解説します。
本論:CO2濃度上昇が植物に与える多角的影響
1. CO2施肥効果(光合成促進効果)のメカニズムと限定性
確かに、二酸化炭素は植物の光合成に必要な主要な原料であり、大気中のCO2濃度が上昇すると、一部の植物では光合成の効率が向上し、成長が促進されることがあります。この現象は「CO2施肥効果(CO2 fertilization effect)」と呼ばれ、特にC3植物(米、小麦、大豆など多くの主要作物を含む)において顕著に見られます [1]。
実際、過去数十年にわたる衛星データからは、地球の一部地域で植生が「緑化」している傾向が示されており、これにはCO2施肥効果が一因として寄与していると考えられています [2]。農業分野では、温室栽培で意図的にCO2濃度を高めることで作物の増収を図る技術も存在します。
しかし、このCO2施肥効果は、以下の理由から限定的であり、単純に「CO2は植物に良い」と結論付けることはできません。
2. 水利用効率への影響
CO2濃度の上昇は、植物の気孔が部分的に閉じることで水分の蒸散を抑え、結果として水利用効率(単位量の水で生産されるバイオマスの量)を向上させる可能性があります。これは乾燥地域において一定の利点をもたらすとも考えられています [3]。しかし、これは同時に、気孔が開く時間が短くなることで、植物が土壌から栄養素を吸収するプロセスが阻害される可能性も示唆されています。また、水利用効率が向上しても、土壌水分そのものが不足する干ばつ条件下では、その効果は限定的です。
3. 植物の栄養価の変化
CO2施肥効果によって植物のバイオマスが増加しても、その栄養価が低下する可能性が指摘されています。高CO2環境下で育った植物は、炭水化物(糖類)の生産は増加する一方で、タンパク質、ビタミン、および鉄や亜鉛などの微量元素の含有量が減少する傾向があります [4, 5]。これは、植物が光合成で得た炭素を効率的に利用しすぎ、窒素や他の微量栄養素の吸収が追いつかなくなるためと考えられています。
この栄養価の低下は、人間や家畜の栄養摂取に長期的な影響を与える可能性があり、特に世界の食料安全保障において重要な課題として認識されています。
4. 複合的な環境ストレスとの相互作用
植物の成長はCO2濃度だけでなく、気温、水、土壌の栄養素、光、病害虫など、様々な環境要因によって左右されます。気候変動はCO2濃度の変化だけでなく、地球全体の気温上昇、異常気象(干ばつ、洪水、熱波など)の頻発化、病害虫の分布変化などを引き起こします。
- 高温ストレス: CO2施肥効果は、ある程度の高温下では見られますが、植物の最適生育温度を超えた過度な高温は、光合成を阻害し、CO2施肥効果を打ち消す、あるいは植物に深刻なダメージを与える可能性があります [6]。
- 干ばつと洪水: 気候変動による降水パターンの変化は、一部地域で干ばつを深刻化させ、別の地域で洪水を頻発させます。これら極端な水ストレスは、CO2施肥効果を打ち消し、植物の生育を著しく阻害します。
- 土壌栄養素の制限: 自然生態系では、土壌中の窒素やリンなどの栄養素が植物の成長を制限する要因となることが多く、CO2濃度が高まっても、これらの栄養素が不足していれば、CO2施肥効果は十分に発揮されません [7]。
これらの複合的なストレス要因は、CO2施肥効果を相殺するだけでなく、植物の生存そのものを脅かし、結果として地球全体の生態系の安定性や農業生産性に対して負の影響をもたらす可能性が高いのです。
5. 生態系全体への影響
CO2濃度上昇が特定の植物の成長を促進する一方で、それは生態系全体のバランスを変化させる可能性があります。例えば、CO2施肥効果は植物種によって異なるため、特定の優占種がさらに優勢になり、他の種の成長を阻害することで、生物多様性が失われる可能性があります。また、植生の分布が変化したり、森林火災のリスクが高まったりすることも、生態系の安定性を脅かす要因となります。
結論:CO2上昇の多面性と複合的な影響の理解の重要性
「二酸化炭素濃度の上昇は植物にとって良いことである」という主張は、CO2施肥効果という一面的な事実のみを捉えたものであり、科学的な全体像を正確に反映しているとは言えません。確かにCO2施肥効果は存在しますが、それは以下のような複合的な悪影響によって相殺されたり、限定されたりする可能性が高いのです。
- 栄養価の低下
- 水利用効率の向上だけでは補えない干ばつの深刻化
- 極端な高温や異常気象による生育阻害
- 土壌中の栄養素の制限
- 生態系バランスの崩壊と生物多様性の損失
したがって、気候変動によるCO2濃度上昇が地球の植生や農業生産に与える影響は、単純に「良いこと」と片付けられるものではなく、非常に複雑で多面的な課題であることが理解されます。私たちは、CO2濃度上昇がもたらす一連の環境変化が、地球の生態系と人類社会に複合的かつ広範な影響を及ぼすことを認識し、それらの科学的根拠に基づいた対策を講じる必要があります。
出典
[1] IPCC 第6次評価報告書, WGII, 気候変動の影響、適応、脆弱性, 2022. [2] Zhu, Z., et al. (2016). Greening of the Earth and its drivers. Nature Climate Change, 6(8), 791-795. [3] Long, S. P., et al. (2006). Global change: a new production of global greening. Nature, 441(7090), 397-398. [4] Myers, S. S., et al. (2014). Increasing CO2 threatens human nutrition. Nature Climate Change, 4(5), 332-337. [5] Ziska, L. H., et al. (2004). Rising atmospheric carbon dioxide and the nutritional quality of food crops. Trends in Plant Science, 9(12), 570-577. [6] Hatfield, J. L., & Prueger, J. H. (2015). Temperature effects on plant growth, development, and yield. Advances in Agronomy, 130, 1-32. [7] Terrer, C., et al. (2019). Nitrogen and phosphorus constrain the CO2 fertilization effect on global plant biomass. Nature Climate Change, 9(4), 420-425.